2016年9月26日月曜日

「尾道七佛めぐり」のご案内


新・相生橋 OBだより107号(2016年10月1日号)掲載

 熊本城について述べるが、姫路城と共に優美なる熊本城が、激震にも耐えて崩落しなかったことは幸いであった。ついては、築城に係る基本的な点を予備知識として記す▼築城は人海戦術であった。城普請(城頭(しろがしら))を頂点に、ピラミッド型の組織が作られ、各部所に進行管理する「目付役」がおかれて作られていった。中世(鎌倉以前)の城は小藩や貴族が各地で小規模の城を作ったので、野面積(のづらづみ)という土盛りと石を盛り上げて領主境を作り、城と称していた▼信長と秀吉の時代になると、豪族が合併し領地確保のためのシンボルとして、築城が盛んになり、それまでの山城から、戦いを行う拠点と家来の館としての役目を持つ城へと変化し、さらに町人屋敷を備える城郭が形成されていく▼城にとって最も重要で、心血を注がれたのが、天守を支える土台と石垣であった。土台は土中3mの深さの穴を掘り、その中に粘土質の土から雑草と雑木の根や種を取り除き、砂と小石と塩を混ぜて、30㎝位の層を作り、土穴を石と大木を使った「タタキ込み」という道具で固め、コンクリートのようにして積み上げた▼次に石垣であるが、①「打込接(うちこみはぎ)」で粗末な岩を重ね、隙間(すきま)に割石を詰め込む方法(初期鎌倉時代) ②「切り込み接」これは、石の側面を重ねて直線になるよう削り隙間にグリ石を入れる方法 ③「亀甲積(きっこうづみ)」これは、石を多面体に加工し横ズレに強い六面体の石を隙間のない状態に積み上げる方法。現存する石垣で、美しい曲線を描く石垣の多くにこの方法が用いられている。熊本・姫路城で多くこの方法がとられ、熊本城の本丸は30mの高さをもち、「武者返し」といって登ろうとする武士が途中で断念する石垣である▼江戸時代中期(慶長年間以降)になると各藩が築城を行うようになる。こうした中、傑出した築城の名武将・藤堂高虎(秀吉と家康に仕えた、近江の出)を「頂点とする「土工・石工(いしく)(石垣づくり)・建築工」などの集団が出現した。この集団は、各藩に招かれて築城に当たったが、分かっている数だけで46城といわれている。さらに藤堂は、17歳で始めて城を作り(秀吉の命で赤木城)宇和島・丸亀・姫路・熊本等生涯74歳で没するまで27城(最後は家康の命により上野城)を作り、さらに、三大将軍家光に命じられて、日光東照宮と徳川家の菩提寺寛永寺(浄土宗)までも普請頭として活躍した。なお、藤堂の子孫が彦根市に石工古代建築の伝統を継承している集団、甲良組と阿納組が残っている。ただしこの組員は、要請によって集められるので、組員は他に職についている。
(次号は新年にちなみ寿ぐことを記す。)

(H28・9記 コラム12編 日本コラムニスト倶楽部会員 R・T)