2014年3月17日月曜日

のんちゃんの あの人はいま ⑤ ~ 丸山 晋正さん ~ 




丸山 晋正 さん
1991年(平成3年)退職

2013.3.16自宅訪問




丸山さんは、平成三年に倉敷地方振興局を最後に退職されました。
福祉畑一筋の勤務でした。30年ほど前に私が井笠地方振興局福祉部でケースワーカーをしていた時、部長をしておられました。さらに20年ほど前、倉敷地方振興局福祉部でケースワーカーをしていた時には川崎医大病院に勤務しておられました。当時、私が担当していたケースの相談に親切、丁寧に対応していただいた思い出があります。
 
三月初旬、書記局に電話があり、「丸山です。高齢なんで自動車の契約を解約したい。」とのこと。
「のんちゃんの あの人は いま」の作成に行き詰まっていた私は、即座に訪問の約束をしてしまいました。当日は、奥様もお話を聞いていただきありがとうございました。 
また、当日、原稿をいただきましたので、そのままインタビュー記事の後ろに掲載させていただきます。

[野田]          
退職後、どうされていたか教えて下さい。

[丸山]          
平成三年に退職し、その後は川崎医大付属病院に勤務しました。
医療相談室でケースワーカーを八年勤めました。その後は何もしていない。

[野田]          
何か趣味はありますか。

[丸山]          
趣味は、旅行、山歩き、田舎を歩く、海外にも十六回行っている。

[野田]          
お体は、特にどこか悪いということはないのですか。

[丸山]          
別に悪いところはないが、血圧の薬を飲んでる。

[野田]          
今は、毎日どんな生活をされているんですか。

[丸山]          
イオンに買い物に行ったり、ウオーキングをしている。

[野田]          
今の夢とか旅行について教えて下さい。

[丸山]          
ハーレーダビットソン一600ccにまたがって、アメリカ大陸とか日本では富良野・美瑛あたりを回るのが夢です。海外旅行もあちこち行ったが、カナダの紅葉を見に行こうとしたら都合が悪くなり、それ以来行っていない。万里の長城に行きバンザイをして帰った。

一番は、スイスの山・マッターホルン、二番はスコットランドの田舎、三番めがニュージーランドの田舎かな。つまらんかったのは、ハワイ、アメリカはあんまり良うなかった。

国内は、尾瀬を歩いてやみつきになり、八甲田・東北の山・日本アルプス、最後は月山だったかな。今、東北は地震があったんで遠慮しているが、やっぱり日本は東北がええ。関西は経済、東北は哲学ありということで、東北がええ。

[野田]          
特に今やってみたいという事はあるんですか。

[丸山]          
山に登るんではなくて、山を歩いて、温泉に入って、テキを食べて、雪の中の露天風呂に入ったら最高です。

[野田]          
あと一つ、我々後輩に対して何か言いたいことがあればお願いします。

[丸山]          
もうちょっと、がまんせえじゃろうな。仕事をやめてから力いっぱい遊べばよろしいが。

前列中央が丸山さん

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訪問時に丸山さんから原稿をいただきましたので、掲載させていただきます。
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職場のB面をかえりみて

丸 山 晋 正   

私は昭和二十九年、笠岡地方事務所を皮切りに、本庁民生労働部、そして最後の倉敷地方振興局までの期間、出先事務所の三分の二、本庁の三分の一を合わせ福祉畑一筋の勤務でした。

何しろ、戦後やっと落ち着いた時代から、現在のような先進国に肩を並べる時代まで、障害者、高齢者のほか、社会的に弱い立場とされる人々のためにと仕事を重ねてきましたが、住民の立場、行政の立場、その間の調整でいろいろ苦労したものです。

エスカレーターや自動ドアーの設置、あるいは歩道ブロックの敷設等、駅のほか商店街に頭を下げてまわった血気盛んな時代もありましたが、当時、助成制度が確立されておらず関係者から色々苦言を頂いたものです。そのような中で諸々の福祉施策の推進、実態調査の実施、関係医療制度の発足等、少数のスタッフでねじり鉢巻で頑張りました。

従って現制度の下地は初期の我々が築いたという自負もちょっぴりあります。

今から思えば、本庁では、予算編成、議会対策など、民間企業ならずとも少々首をかしげるような非能率な作業過程もあったと思われます。
それと合わせ、国本省の権限、議員さんの圧力等、我々の微力さも骨身にしみたものでした。
 
今では、担当者一人がまたたく間に七人に増加するという、いわゆる「パーキンソンの法則」よろしく、担当係が課や室どころか部としてまで広がり、外部にもわかりにくい肩書きが増えているようですが、まあ、これも行政需要もあり時代の流れでしょう。

次に個人的なことですが、私は県庁マンとしての適性に少々欠けるところがあったのか、人事に関して、上司から「お前のような者は取り手がない」とか、「君は積極性が無い」(つまり、飲み会やゴルフコンペの段取りが出来なかったこと)と言われ、私なりに、勤め人として二級品コンプレックスを持っている上、なる程、そもそも最初から道を間違えたのかなと痛切に思ったりしたものです。

でも、第一線を無事終えた時、これであちこちお辞儀をしなくてもよいという気分と合わせ、郊外の桜の色合い、野山の緑がすばらしかったことは、今でも忘れ難いものです。

そこで話を進めますと、県庁退職後、平成三年から川崎医大病院業務部で居心地がよかったのか八年間もお世話になりました。

そもそも私は山歩きが好きで、自然に触れたいという名目のもと、病院の給与で国の内外を問わず「どさくさ旅行」を続けました。

おかげで少しは人間としての内面が広がったような気がします。

それにしても年金は有難く、おかげ様で平均的な生活を送らせて頂いております。

私は今、平均寿命を少し越え、同年齢の友人の半数が鬼籍に入り、少々さびしさも漂い始めてい
ますが、所詮仕方の無い成り行きと思っています。今後は、できるだけ、あらゆる面で他人に迷惑をかけず、静かにこの世を終えること。その過程で、気分の良い事ばかりであれば万々歳であり、そうでなければ運が悪かったと思えば良し。

人生の幸せは何か。私は、どこの村長さんがどう言おうとも、第一に健康、第二にお金が土台と思っております。名優チャップリンは、少しのお金は必要と言っています。

ちょっとニヒルな言い方で恐縮ですが、「なせば何事も成る」と言うのは大うそです。

夢とか希望は一種の錯覚であり、人生には「適度なあきらめ」を学ぶことも必要ではないでしょうか。
御免なさい。

「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ5 93号掲載






「のんちゃんの あの人はいま」
シリーズ5 93号掲載